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桜辯会(弁論部)

 弁論部は当初、「演説部」と称し、明治22年(1889)の輔仁会発足と同時に創設された最も古い部の一つである。発足後しばらくして、一時的にその活動が低調になり、名称も明治36年(1903)に「邦語部」と改称されたが、同39年1月に第一高等学校ム弁論部主催の第一回聯合演説大会に代表を出すなど、再びその勢いを盛り返している。この当時の邦語部の委員には志賀直哉、武者小路実篤、石渡荘太郎らが名を連ねている。
 大正時代に入っても、その豊富な人材は犬養健、大久保利謙と衰えることはなかった。しかし、学生自身の弁論に対する活動が停滞し始めたため、これを刺激するためにも学者や文学者を招いて講演会を行うことになった。この講演会は恒例となり、大正10年(1921)には12回の小講演会が催された。講演者をみてみると、哲学者の天野貞祐、詩人の西条八十、政治学者の吉野作造など錚々たるメンバーが揃っている。少し時間は戻るが、大正3年11月25日にはこの講演会の一環として夏目漱石が「私の個人主義」と題する講演を行っている。この漱石の講演は、自分の留学経験などをもとにした、当時としては画期的な文化論で西洋と日本の国民性の違いを浮き彫りにした。このほかにも和辻哲郎、芥川龍之介らも講師に招かれ、活発な部活動が行われている。
 大正12年には名称が「講演部」となり、1月5日には東京帝国大学主催の全国高等学校弁論大会に代表が出場した。その翌年に再び名称が変わり、現在まで続く「弁論部」となった。
 しかしこの弁論部は、昭和2年を境として外部の弁論大会には出場していない。これは思想問題などとの関係で、学校側が外部への弁士派遣を禁止したためである。部内での活動は今まで通りであったが、やはり外部との接触が制限されることで刺激が少なくなったのであろう、活動は次第に停滞していった。
 昭和19年には弁論部を含む文化部は戦時非常措置により活動停止となった。この措置は昭和20年の敗戦まで続いた。そして昭和20年11月9日の輔仁会理事会で戦時非常措置の廃止と文化部の復活が決定される。この戦後の混乱の中で、弁論部の実質的な活動は昭和23年に入ってからになる。同年の10月、朝日討論会に出場し、いきなり準決勝まで進む健闘をみせた。
 この後、弁論部のOB会、桜辯会の現会長の福岡照夫氏が昭和26年に入部し、本格的な戦後の活動が始まった。同27年の7月に安倍能成院長が、まだ戦後の翳りを抱えていた学習院全体を盛り上げる活動の一環として、第1回院長杯争奪弁論大会を開催した。この当日は全学を休講にして開催するほど、院長もこの弁論大会に力を入れていた。
 この昭和27年から31年にかけて、29年の全日本雄弁連盟加入などを契機として弁論部は戦後最初の全盛期を迎え、各新聞社や大学の主催する討論会や弁論大会に出場することになる。この時期に入部した中から、前福岡ドーム副会長の田中鐵男氏(昭31政)、元農林水産大臣の島村宜伸氏(昭31政)らを輩出した。昭和30年春には総理大臣杯争奪全関東大学討論大会で田中鐵男氏、工木甫夫氏(昭31政)、高場清海氏(昭32政)、野々山茂氏(昭32経)で優勝した。また第11代全関東学生雄弁連盟委員長に田中鐵男氏が就任し、同時に全日本の議長も兼任し学習院大学は学生雄弁界のリーダーとなった。一見、男子中心の部にみられがちな弁論部も、平成に入ってから急速に女子学生が増えてきた。その中から平成4年に弁論部初の女性幹事長が登場した。このように、弁論部は時代に逆らわず、時代に流されず、独立自尊の道を今も歩み続けている。