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新艇エイト「颯」進水式

エイト 颯 (はやて) の進水式は、平成31(2019)年3月10日(日)、学習院戸田艇庫において、桜友会長 東園基政様のご臨席を仰ぎ、多くのの桜艇会会員が参集して開催されました。
第一部の進水式は、和楽備(わらび)神社によって行われ、創部 130 周年の節目にふさわしく厳粛に挙行されました。ご多忙な中をご出席いただいた東園会⾧からは、命名いただくとともに、今後の漕艇部への期待が込められたご挨拶を頂戴しました。
その後、学習院戸田艇庫 2F において懇親会が行われました。懇親会では、大学漕艇部・張谷主将より、新艇建造にあたってご支援いただいた皆様への感謝の気持ちとともに、今後の抱負が述べられました。
最後に、大学漕艇部・森下くん、横山くんのエールで結ばれ、進水式の全日程が盛会裏のうちに終了しました。
改めまして、エイト建造にあたりご支援・ご協力いただきました桜友会の皆様、学校関係者の皆様、桜艇会の先輩方に深く感謝申し上げます。

桜艇会事務局 安部健太

<進水式出席者(敬称略)>
東園基政桜友会⾧、和光純大学漕艇部⾧、小林孝之輔、鈴木信太郎(S34)、 松尾俊吉(S36)、岩城政三(S43)、芳我孝雄(S42 高)、児玉元(S47)、黒田努(S51)、松高直茂(S53)、前岡一郎、小林直樹、中山雅之、片野築、土屋哲夫(S58)、笠原正晃、浮田秀明、松浦雅仁、石井秀幸(S59)、高城彰吾(S60) 竹内理秀(S63)、清水俊輔(H5)、中澤誠一郎(H7)、和田克之(H18)、横堀翠(H21)、安部健太(H22)、照井友樹(H25)、内藤晧文、岩下玲(H26)、 恩田裕梨香、坂本江梨、澤地栞莉(H27)、渡邉直樹、尾上由紀子、薄木日向(H28)、相川俊平、山口ゆり(H30) 37 名
ありがとうございました。

学習院俳句会 新年初句会開催

平成31(2019)年1月17日、恒例の初句会が霞会館において開催されました。今回は特別選者に玉藻主宰の星野高士、花鳥主宰の坊城俊樹の両先生をお招きして28名が参加。句会後の懇親会では、お二人からなつかしい母校学習院俳句会の昔話を伺い、楽しくも有意義なひとときを過ごしました。

●星野高士先生特選句
「墨を磨る音の香を生む二日かな」 湯口昌彦(34政経)
●坊城俊樹先生特選句
「初暦富士の高嶺の匂ふごと」 遠藤風琴(32短大)
●長嶺千晶先生特選句
「御破算で願ひましては年の暮」 宮田應孝(30政経)
●当日の最高得点句
「屠蘇酌むや戦禍を知りし喉仏」 長谷川祥子(35英文)

学習院俳句会は超結社の楽しい句会です。
毎月一回長嶺千晶先生(晶代表・57仏文)のご指導のもとに句会を開催していますが、年齢層も厚く北海道をはじめとし遠隔地からの出席、投句もあります。俳句に興味をお持ちの皆様のご参加をお待ちしています。
お問合せは、多田信子(34国文)まで。
電話 03-3200-6704

第9回 学習院放送研究部春秋会 総会・講演会のご案内

日時:2019年5月11日(土)12:00~14:30(11:30より受付開始)
会場:「ラウンジ目白倶楽部(日比谷松本楼)」(中央教育研究棟12階)
懇親会費:6,000円
総会後講演会:講師 山本時雄氏(元日本テレビチーフプロデューサー)S33年卒
トークショー 「ドラマタレントの思い出」vol.2~我が懐かしき役者たち~
【参加申込フォーム】は、コチラから https://goo.gl/forms/X5g0Cx0OJDcIchyU2 

剣桜会(剣道部)

美しい剣道をしなさい。

それが一生懸命やると

いうことなんです。

(秋田一季さんの言葉)

秋田一季(あきた・かずすえ)
大正4年12月生まれ。昭和14年、学習院高等科卒業。同18年、東北帝国大学卒業。同28年2月、宮中御歌会諸役拝命。同62年より桜友会会長、学校法人学習院理事を歴任。平成9年3月30日死去

 

漕艇部の歩み

学習院の部活動で最古の歴史をもつ「漕艇部」。その歴史は、明治24年11月の東京府尋常中学校(都立日比谷高校)学友会の第1回競漕会に参加したことから始まった。
発足当初の名称は「端艇郡」。明治25年には、部で初めてとなる端艇3隻(いぶき、のわき、はやち)を新造した。当時端艇を持っていた学校は、東京帝国大学や高等商業学校などの2、3校。大変貴重なものであったことは想像に難くない。
同年10月、皇太子殿下(大正天皇)の臨席を仰ぎ、墨田川で進水式が行われた。この時、殿下から賜った御下賜金で「優勝旗」を製作。明治27年の「輔仁会端艇競漕会」からこの優勝旗争奪戦が繰り広げられ、以後毎年競漕会が開かれるようになった。
明治33年に名称を「水上部」に変更。明治41年の「全国中学校選手競漕大会」参加をきっかけに、対外的な活動も始まった。大正13年「第1回全日本スカール選手権」を獲得。以後、昭和3年からおよそ10年に渡り選手権を獲得し「スカール王国学習院」の名をほしいままにした。
昭和18年には、現後援会会長の中野新一郎氏が、海の記念日海洋競技大会スカール競漕で、全日本選手権保持者を破り、戦時下最後の錦を母校に飾ることになる。
昭和24年、大学開設と同時に大学水上部が発足。戦前に続いてスカールでたびたび全日本選手権を獲得し、伝統を保持した。空襲で端艇が焼失したため、しばらく借艇での練習だったが、26年にOBと学校の援助でフォアを建造。28年には後援会も発足し「漕艇部」と改称した39年、埼玉の戸田ボートコースに艇庫が完成し、今年7月まで、30余年に渡り部員たちの活動の場となった。
昭和30年代以降は戸田レガッタ、全日本大学選手権などでスカール、フォア、エイトでの優勝や上位進出、そして62年の全日本軽量級選手権では対抗エイトで準優勝と活躍している。近年では女子部員の活躍も目立つようになっている。
海外交流も積極的で、平成10年10月、高等科漕艇部はイギリスの名門パブリックスクール「イートンカレッジ」のボート部と親善試合を行った。イートンクルーの強さを見せつけられた試合だったが、試合後は大いに懇親を深めた。
明治以来の歴史と伝統をもつ「漕艇部」。新艇庫完成をきっかけに、更なる飛躍を期待したい。

硬式野球部 栄光の歴史に映えて

学習院野球部は今年(2001年)で創部百十二周年を迎えます。
米国人教師によって野球が日本に紹介された明治の初期から、学習院では「ベースボール同好会」が結成され、他校との試合が行われていたようです。
正式に学習院野球部として記録に残っているのは、一八八九年(明治二十二年)輔仁会が創立され輔仁会維誌が創刊されてからであるため、その時を野球部創部の年としております。
その頃は慶応、一高、農学校(後の東大農学部)、高等商業(一橋大学)、青山学院、明治学院等と試合を行ったという記録が残されています。
このように、正に日本の野球の黎明期に創部された伝統ある学習院野球部は、その長い歴史の中で日本のアマチュア野球界に多くの名選手を輩出し、また幾多の輝かしい実績を残してまいりました。その中でもとりわけ燦然と輝く二つの偉大な戦跡があります。
1.インターハイ優勝  明治の初めに我が国に紹介されたベースボールが、野球として国民に親しまれるようになり、その後大正時代に入って学生野球を中心に全国的に盛んになりました。特に大正十三年甲子園球場が完成してからは「中等野球」が人気を博しました。
昭和に入ってからは東京六大学の最盛期でありましたが、学習院高等科からも多くの先輩が東京六大学でご活躍されました。
当時は、この「中等野球」と「大学野球」のほかに、「高等専門学校野球」がありました。これは高等学校(旧制)と高等専門学校が一緒に戦うもので、大正十三年に第一回の「全国高等専門学校野球大会」が開催されております。
東京、京都、東北、九州の四帝国大学が主催、大阪朝日新聞社が後援で各帝国大学所在地で予選を行い、地区代表四チームで優勝戦を行うというものでした。
その後紆余曲折があり、昭和十年、高等学校と専門学校が分かれたため、高等学校野球連盟が設立され、インターハイが誕生しました。
学習院高等科は昭和十年の第一回大会より参加しておりましたが、戦後初の大会となつた第九回大会(昭和二十一年)で見事優勝致しました。
当時の様子について、チームの主将であった吉井滋先輩(昭和二十二年高等科卒)が「旧制高枚野球部史」に寄稿された追想文を 「学習院野球部百年史」から引用させていただきます。
「”終戦”旬日を経て復員、真っ先にかけつけた目白台のグラウンドは芋畑と化していた。しかし盛夏の日差しは敗戦も知らぬ気に燦として輝き、周辺の森の樹々はあくまで緑一色 木の間越しに射し込む陽光は、三島由紀夫いうところの影に愁ひあり、光に悲しみありそのもので、大げさにいえば国破れて山河ありの感があつた。
昭和二十一年、この歳のインターハイは敗戦の痛手より未だ立ち直れなかったこともあって、例年の如く夏ではなく秋に行われることになり、また輸送状況きびしく、全国各地より一ヵ所集結の全国大会開催は無理となり、関東、関西、東北、九州の四地区予選勝ち抜きチームが京都三高球場で京都帝大主管の下に決勝大会を行った。
ここで当時の学習院のメンバーを列記すると、
部長 西崎一郎先生
監督 瀬川昌治
三年 吉井(主将)、芝、渡辺兄、伊達
二年 富永、小出、大月、渡辺弟
一年 松平、和波、真田、亀井、岡部、鹿島、武村、佐久間
マネージャー 松方、益田、国司
東京における予選は松本、成城、都立、成蹊を連破して関東地区優勝、決勝大会は、関西浪高、東北二高、九州福岡高でこの四者により準決勝を行い、浪高を破った学習院と福岡高を破った二高が優勝戦に駒を進めることになった。
優勝戦の学習院のメンバーは次の通り。
(捕) 吉井
(二) 渡辺兄
(左) 芝
(右) 岡部
(遊) 小出
(一) 佐久間
(投) 富永
(三) 渡辺弟
(中) 武村
試合結果は当時高専部門の鳥取高専の山根投手(毎日オリオンズ、元大洋コーチ)と並び称せられた富永投手の予想外の不調で、三回までにつけられた絶望と思われる七点差を後半見事ひっくり返して、結局十四対九で全国制覇を成し遂げた次第である。
往時を顧みれば正に漠として夢の如しであるが、優勝の一瞬、富永投手とかけよって抱き合ったこと、逆転の満塁三塁打を打ったこと等未だ脳裏にはっきりと刻み込まれている。」
戦後第一回のインターハイで見事優勝された先輩方の姿が浮かび上がってくるようですが、正に「健児の意気を君見ずや 我が校の名は学習院」と高らかに歌い上げ、母校の名を世に知らしめた快挙でありました。
2.東都大学リーグ一部優勝
インターハイ優勝後、学制改革により昭和二十四年旧制高等科に替り新制大学が設置されました。野球部は昭和二十五年に東都大学リーグに加盟し、秋のシーズンから二部リーグに参加することとなりました。
加盟後四シーズン目の二十七年春待望の一部昇格を果たしました。その後は強豪校ひしめく一部で善戦しておりましたが、三十三年春に最下位となり芝浦工大との入替戦となりました。 一勝一敗一分のあとの第四戟、九回佐藤太美雄選手のダメ押しホームランで辛うじて二部転落を免れました。
そしてその昭和三十三年秋。苦しい一点差の試合をモノにしながら、勝ち点三をあげ最後は、学習院・日大・中央の三校が同率首位となり、東都大学野球史上初の三校による優勝決定戦を行うことになりました。
最初の試合で日大を破った中央が学習院に勝てば優勝という試合で、八回の表まで二対0と中央にリードを許していた学習院が八回の裏同点に追いつき、そして九回裏にサヨナラ勝ちと正に奇跡的な試合を制し、その結果三校が一勝一敗となり二回目の優勝決定戦を行うことになりました。
第一回優勝決定戦
中 央 十対四 日 大
日 大 二対一 学習院
学習院 三対二 中 央
二度目の優勝決定戦は神宮球場で行われました。
第一戦で日大に勝った学習院は中央に勝てば優勝という大一番を迎えました。その時の学習院の応援席には皇太子殿下(今上陛下)、義宮殿下(常陸宮殿下)清宮さまをはじめ六千人を越える大応援団で埋まりました。結果は一点差で惜敗し、三度三すくみとなりました。
第二回優勝決定戦
学習院 二対一 日 大
日 大 六対一 中 央
中 央 三対二 学習院
夕闇迫る神宮の会議室で関係者が集まり、十一月も半ばを過ぎたしここで優勝は預かりにしようという声も出たが、前年度連盟の理事長をつとめた学習院の柳谷武夫野球部長をはじめ学習院関係者の強い希望もあり、最後の優勝決定戦が行われることになりました。
三すくみの三度目、最後の決定戦は学習院・日大戦から始まりました。
先攻の学習院は二回江野沢がレフト線に二塁打、穴沢の中前タイムリーで二点を先取。五回には二死から田辺が右中間に二塁打、小川の内野安打で一、三塁となり、北田の右中間タイムリー二塁打で二点を加え、四村0とした。 学習院の先発井元は速球と鋭いカーブで五回まで日大を二安打と押えていたが、六・九回に点を取られ一点差と詰め寄られたが、力投。最後は逃げ切りました。
再びあと一勝で優勝というチャンスをつかんだ学習院は今シーズン五度目の中央戦に望みました。
学習院の初優勝を見んものと駒沢球場に駆けつけた応援席は五千人を越える観衆で埋まりました。
五回先頭のキャプテン田辺が中堅に三塁打を放ち、小幡の犠飛で先ず一点、続く北田、佐藤が連打を浴びせたあと、江野沢がライトスタンドにホームランを打ち、止めをさしました。
エース根立は中央打線を押え遂に念願の一部優勝を果たすことができました。
第三回優勝決定戦
学習院 四対三 日大
学習院 五対二 中央
なお東都リーグ担当記者による投票の結果、個人賞は次の通りとなりました。
最高殊勲選手 田辺隆二
最優秀投手  井元俊秀
敢闘賞    根立光夫、穴沢健
またベストナインにも学習院から下記の三選手が選ばれました。
ベストナイン 遊撃手 田辺隆二
外野手 北田次平、佐藤太美雄
その夜目自の町は提灯行列でごった返し、AP電は全世界に学習院の優勝を報道したそうです。
正に豊富な練習量に裏打ちされた勝利への執念、気力、またそれを支えるOB・学校関係者の熱意、それらが一体となって、キラ星の如くプロ候補選手を揃えた強豪校を打ち破ったことは、正に快挙であり、野球関係者のみならず、多くの人々の共感と評価を得ることとなりました。
現在現役野球部は東都大学三部リーグで戦っておりますが、先輩方が築き上げられた伝統の重みをかみしめて、「東都に学習院あり」とその存在感を再度世間に知らしめるべく、更に練習に励み「学習院野球」の復活を目指して欲しいと思っております。

東都大学リーグ1部優勝決定直後のベンチ入りメンバー

硬式野球部の優勝を可能にした「無欲の栄冠」。そのスポーツマンシップは今後も多くの人に語り継がれ、希望を与え続けるだろう。

読売巨人軍浅沼監督の薫陶を受けたOB会名誉会長の鈴木重臣氏(昭12高)

大学野球部の草刈廣監督(昭31政)。中等科との試合ではピッチャーとして大活躍!

学習院柔道百二十・柔桜会五十周年記念祝典

「脈々と受継がれる学習院柔道の歴史」
平成十八年一月二十八日(土)午後三時より百周年記念会館に於いて嘉納講道館長を始め多数のご来賓、柔桜会員、学生一七〇余名が出席して「学習院柔道百二十年・柔桜会五十周年記念祝典」を開催しました。
又この日、記念事業として進められてきた学習院柔道百二十年史が刊行し、出席者に披露されました。
学習院柔道は、明治一五年(一八八二)嘉納治五郎師範が学習院高等科教師に就任し、講道館を創設した翌明治一六年(一八八三)に院内に柔道場が完成すると同時に柔道が学校の正科として日本で初めて採用されることにより始まりました。以来今年で一二三年目を迎える学校柔道としては日本最古の歴史をもっています。
師範は教育者としての理念、情熱、能力を初代立花種恭院長、二代目谷干城院長に高く評価され教育実務を任されていました。師範は柔道を通じて人格品性に重きをおき、かつ人間としての平等の精神を学ばせたと考えられます。師範の「よい教育をしてよい人間を学校から送り出す」という教育理念により誕生した学習院柔道は学校柔道としての特徴をもち、いまなお色濃く残しています。
出席者は学習院柔道の黎明期から戦後復活の歴史をあらためて知りその重みを強く実感しました。
学校教育の正科の中から誕生した学習院柔道部は、学校柔道の特徴を持ち現在も残しています。戦後も高等科柔道部は高等科OBの応援によりいち早く復活し、大学柔道部にもその伝統が引き継がれました。従って柔道部には運動部にありがちな上級生が下級生に対して無為に威張るという悪しき伝統はありません。同じ畳で修業する仲間として互いに認め合い切磋琢磨する学習院柔道の特徴はこうした長い学校柔道の伝統とOBの支えにより培われてきたものだと知り感動しました。

学習院柔道百二十年史 「今作らねば、その機会はなくなってしまう」
学習院柔道百二十年史編纂は、当時、学習院院長を務めておられた島津久厚柔桜会名誉会長の一言で平成一三年から始まりました。学習院柔道百二十年史は、学習院柔道百十五年の歩みの編纂を含めれば七年、その編纂だけでも五年余の歳月をかけ、織部編纂委員長始め編纂委員の努力によりようやく刊行しました。明治・大正・昭和・平成に亘る一二〇年の長い歴史の散逸する資料や貴重な文献・関係者の方々のお話を求め東奔西走し、幾度となく編纂会議が開かれました。亡くなられた先輩方も多く、貴重なお話も聞けず、もっと早く始めたらと残念な思いが多くありましたがぎりぎりの時間の中で完成することができました。
学習院柔道百二十年史は学習院の柔道史であるとともに、日本の柔道史にとっても黎明期の柔道と学校柔道の歴史を伝える貴重な一冊となったと思います。

ゴルフ部創立50周年パーティー2002

50年の歴史を刻んだコルフ部の仲間たちの集い  ゴルフ部創立50周年記念
平成14年7月1日、東京のホテルオークラ別館で学習院大学ゴルフ部の創立50周年記念パ-ティーが催された。常陸宮殿下・妃殿下がご臨席になられたこともあってか、OB・OG・来賓・学生合わせて約300名もの方々が参加した。
会は学習院大学ゴルフ部OB会会長の重宗信正氏(昭33政)の挨拶で始まった。今回の50周年を祝うとともに、「100周年に向けてがんばりましょう」という力強い言葉も飛び出した。島津学習院長のお祝いの言葉、来賓の関東学生ゴルフ連盟会長の松本富夫氏の乾杯に続きパーティーが始まった。パーティーの席では学習院出身のハワイアンバンド「ドゥリーミーアイランドアス」の演奏とハワイアンダンスが彩りを添えた。
会の途中では、現役の男子ゴルフ部の、飯田嘉友主将によるプロジェクターを利用した「学習院大学ゴルフ部のあゆみと現役活動報告」や、抽選会などがあった。ゴルフ部の歴史を語る場面では創立当時の写真や、大会の時の写真などが映し出され、皆さん、じっと画面に見入っていた。また抽選会では、賞品のパターが常陸宮殿下に当たるという一幕も。
20時30分、ゴルフ部OB会幹事長の大野了一氏(昭47政)の中締めの言葉で楽しいひとときは散会となった。
また、桜友会のゴルフ大会にも毎回、常陸宮両殿下がご臨席になるが、これも学習院大学ゴルフ部OB会の協力によるものである。

創部50周年を視野に入れて
学習院大学ゴルフ部OB会会長
重宗信正(昭33政)
● 創部者、安田 弘先輩の命でOB会会長を引き継ぎ2期目になります。安田前会長の代には、大学側のご理解とOB各位の熱意と協力でOB・現役待望のゴルフ練習場が学内に完成しました。そして、ゴルフ部も平成14年(2002年)には創部50周年を迎えます。OB会の活動も年々充実し、現役への支援費の増額、男子中・高等科ゴルフ部の強化、女子中・高等科のゴルフ部創部支援等、精一杯、次世代を担う若者へのメッセージを企画し、実行していきたいと思います。皆様のご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

学習院大学ゴルフ部OB会名誉会長
安田 弘(昭31経)
● 私たちが学習院で初めてゴルフ同好会をつくったのが、昭和27年です。当時は中村寅吉と小野光一がカナダカップに優勝し活躍していたゴルフブームがはじまった時で、10名の同好会員でスタートしました。当時としては珍しく、女性も2名おりました。ただその時は、全く資金も、肝心のクラブもないといった状況で、多くの方の好意やメンバーの知恵と苦労で資金を集めて練習ネットなどを買い、今の百周年記念会館のあたりで活動していました。当時を思い出すと、本当に苦しかったけれど楽しい時期でした。

学習院大学サッカー部(桜蹴会)


●第3日曜日はサッカー
毎月、第3日曜日は、中高第一グランドで、サッカーを楽しんでいます。若い卒業生から、60才過ぎの大先輩まで、皆でボールを蹴っています。
是非、いらして、昔を思い出して下さい。
昨年は、大学サッカー部創部50周年ということで、記念パーティ、記念試合を行ないました。51年目の今年から、新たな歴史を刻んで参ります。卒業生の皆様、何かとご協力願います。
・桜蹴会のホームページを開設しました。 http://www.gfc-ob.jp/

●一丸となって部の強化を目指す

桜蹴会会長
尾関精一 (昭46済)

学習院大学輔仁会サッカー部は、今年50周年を迎えました。この50年の間に、当サッカー部はいろいろと変遷をしてきました。
昭和30年代、大学スポーツ興隆の流れの中、強豪と呼ばれる大学と互角に渡り合った時期もありました。次第に大学の数も増え、またレベルの格差も広がり、我がサッカー部は束京都1部リーグ、そして2部リーグへと・・・。
一時、関東リーグへの昇格も果たしましたが、その後、また東京都3部まで降格という憂き目にも遭いました。
現在は曲がりなりにも、東京都1部に残留し、5シーズン目を迎えようとしています。
その間、400名余りの卒業生がサッカー部を巣立ち、後輩の指導や、シニアチームのメンバーとして、今でもサッカーに関わるOBは大勢います。
特に、甲南大学との定期戦にはOB同士の試合も行い、和気藹々の中にも、お互いに結構勝負にこだわり、皆いつも以上に頑張ってしまいます。
現役の強化としては、他大学のようなセレクション制度などを導入できない現状の中で初、中、高等科を含めたオール学習院サッカー部の強化に努めて行くことがこれからの桜蹴会の課題であると感じております。

●学習院サッカーを受け継ぐ者たちが取り組む姿勢はただ一つ。時代年代は違っても、変わらないのは「ベストを尽くす」こと。
学習院でのサッカーサークルの胎動は、戦後間もない昭和24年。新制大学が発足した年。サッカー部の前身である「サッカー同好会」設立の申請が村田經和氏(昭29独専)を中心に学校当局になされ認可。翌25年から部員が集まり、同好会としての活動が開始された。
昭和26年には、第2回目を迎えた「四大学運動競技大会」で、サッカーが正式種目に。学習院もプレイし、運動部セレクションでない学校では、一番の強さを誇った。
2年に及ぶ同好会時代に確実に実績をあげたサッカー同好会は、昭和27年に「学習院大学輔仁会サッカー部」として活動を開始。初代部長に、豊崎光衛教授が就任し、一貫したサッカー理論を流布した。現代に脈々と受け継がれる学習院サッカーの土台が固まった。
昭和28年、部としては初めての対外試合である「第1回全日本学生選手権大会」に参加。翌29年には「関東大学蹴球リーグ5部」に加盟し、部として本格的の活動を開始した。新規加盟後、サッカー部は怒涛の3年連続リーグ優勝。一気に3部昇格を果たした。3部に昇格後、昭和37年まで毎年ブロック優勝を成し遂げたサッカー部。この時期が、第1期の黄金時代であった。
昭和38年になると、関東のリーグ制が改変され7部制に。学習院は国士舘、順天堂、青山学院など強豪ひしめく第3部に残った。そして昭和43年に再びリーグ制が改変され、東都リーグ1部に加盟。関東大会に優勝するも、関東2部の入替戦で上智に惜敗。昇格は実現しなかった。
49~54年にかけては、東都2部に降格し、苦難の時期であったが、チーム強化が図られ、55年に7年ぶりの1部リーグ復帰。昭和60年にはリーグ優勝を果たした。そして、関東大会2位で入替戦に進出。慶應を2-1で下し、悲願の関東2部リーグ入りを成し遂げたのである。会場の西ヶ丘サッカー場には多くのOBが応援に駆けつけ、勝利の喜びを味わった。
2年にわたって関東2部で健闘したが、再び東都1部降格。創部40周年の平成4年には、13年ぶりに東都2部に降格してしまった。ところが、これで終わらなかった。
平成9年には東都2部リーグで、黒星なしの優勝をし、見事1部に復帰した。一進一退を繰り返しつつ、現役部員たちは活躍している。
サッカー部のOB会「桜蹴会」では、毎月第3日曜の昼間、中高グラウンドに有志で集まりサッカーを楽しんでいる。現役の合宿には若いOBも参加し、胸を貸す。また、甲南や成蹊とOB戦も行っている。
折しも今年は日韓共催でサッカー・ワールドカップが開催され、全国的にサッカー・フィーバーに沸いた。 各地のどの試合会場も大いに盛り上がり、サッカー文化が日本にも根付いたのではないだろうか。
学習院大学輔仁会サッカー部も今年、創部50周年を迎え、記念の催事が計画されている。今後とも初・中・高・大の一貫の取り組みで学習院のサッカーの伝統を継承し、活躍することを期待したい。「全体のレベルが上がった」とOBも認めるサッカー部。上位リーグを目指して、学習院の選手たちがベストプレイを繰り広げてくれるのが楽しみだ。

昭和33年3月、サッカー部員で記念撮影。ピラ校が建っているところは当時グラウンドだった

昭和62年4月5日の関東大学春季対抗戦にて

観光事業研究部創部50周年記念大会 2003

 観光事業研究部は昭和28年、観光事業研究会として、故山田明夫氏(昭32政)を中心に20名弱のメンバーでスタートした。そして平成15年、600名近くのOB・OGを輩出しながら、50周年を迎えることとなった。その観光事業研究部創立50周年記念大会が平成15年10月4日、学習院創立百周年記念会館小講堂で開かれた。
 実行委員長山本義幸氏(昭50政)の開会の辞に続き、児玉茂幸OB・OG会長(昭39経)の挨拶で会は始まった。児玉会長は部の歴史を振り返りながら、諸先輩方への感謝を述べた後、「この会を新たな観光事業研究部のスタートとしたい」と締めくくった。
 来賓として田島義博学習院長、草刈廣桜友会副会長(昭31政)がそれぞれの旅の思い出を交えた挨拶をした後、永田良昭学習院大学長(昭29高)の乾杯で歓談がスタートした。
 会の途中、年次別の集合写真が撮影され、中にはいい感じでお酒が入り、顔を真っ赤にしながら写真に収まっている方もちらほらと見られた。
 写真撮影に続いて、余興のビンゴゲームが行われ、もともと遊び好きの皆さん、急に真剣な顔になり、手元のカードと司会者と、交互ににらめっこしていた。1等賞品は観研らしく箱根富士屋ホテルのペア宿泊券で、夫婦揃って観研OB・OGの方に当たった。
 また小講堂入口脇には、会報誌「目白丘」のバックナンバーがずらりと展示され、皆さん懐かしそうに見入っていた。「あ、これ私が書いたの」とか、中には「この”目白丘”の名前は僕が付けたんだよ」という方もいて、それぞれの思い出を語り合っていた。
 会も終わりに近づき、菅原豊OB・OG会代表世話人(昭38経)の「次回もまた、皆さん元気にお会いしましょう」との言葉と、参加者の大きな拍手で会は締められた。
 今回、遠くは北海道、九州からの参加者も含め、OB・OG・現役、130名以上の方が集まった。